久しぶりに山の話を。
先日、中央アルプスの最高峰である木曽駒ヶ岳に登ってきた。
標高2956m。
3000m級の山はその存在感が圧倒的で、そこにいるだけでものすごくハイになる。紺碧の空、そよぐ冷えた風、連なる山の稜線。すばらしい!
ただ、この山はバスとロープウェイでかなりの高さまで登れるのだ。実際登る標高差は300mほど。
訳無く誰でも登れる。5歳の子供でも登れた。
気軽にアルプスの絶景を味わえるという点ではとてもいいことではあると思う。でも僕にはなんだかこれでいいのだろうかという気持ちが残った。
昨年登った槍ヶ岳。1600mの標高差を、森林を抜け雪渓を渡り、ガレ場をよじ登り、槍の穂先を見つめながら苦しい一歩一歩を何とか進んでいく。そしてやっと稜線に乗った時のあの感動は今でも忘れられない。
山頂を踏むためなら使えるものはなんでも使ったらいい。それも一理ある。けれど、僕は万人を寄せ付けない厳しい山により魅力を感じるように、最近なった。
それともう一つ、木曽駒で会う人達は少しだけ何かが違った。
その三日後、地元の山に一人で登った。
それは中山という山で、安産の寺として知られる中山寺のあるところ。
ここを気に入っている理由は自転車で麓まで行けるところ。
30分ママチャリを走らせて、阪急山本駅駐輪場に停める。電車でひと駅の中山観音駅で降りる。そこから標高478mを登る。山頂からはアップダウンの連続する稜線を歩き山本駅に下山。
中山。この時期は死ぬほど熱い。蜘蛛の巣もまるでセキュリティーのトラップのように縦横無尽に張り巡らされている。高山植物などもちろん無く、湿度が高いためシダ植物の生い茂る登山道。展望の良い場所もあるけれど、暑すぎて長時間とどまっていられない。稜線歩きは左にゴルフ場、右に山肌を削って作られた新興住宅街をすぐ横に見ながらの悲しいコース。
そんな山だ。
でも僕はこの山を愛している。
家から望める山に登り、山頂から自分の住む街を眺められる。
森のなかは静かで穏やかな時間が流れる。
コースの終盤には滑落したら命に関わる危険のある切り立った岩場もあり、スリルも抜群。
そして、一番の魅力は同じように中山を愛して何回も登ってるような心優しい山好きたちと出会えるからだ。
大展望、非現実、壮大さ。高い山に登らないと感じられないそれらも確かにいいとおもう。
僕が山に向かうのはきっとそういうことよりも、山に身を置くだけで満たされる何かがあるからなのだろうと思うのです。
山ならなんでもオッケー。ママチャリで行けるなんてそれだけでかなりの高ポイントだ。
そんな自分だから音楽もああなってしまうのです。
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